蔵王は真田幸村の子孫が住んでいた土地
2010年 01月 22日
一昨日の夜に蔵王町のございんホールで仙台真田氏の勉強会があったので、参加してきました。
以前話題にしましたが、戦国末期に活躍した真田幸村の子供が白石の片倉家に匿われて血脈を残していたのですが、その真田家の子孫が蔵王町(しかもうちの近所)に住んでいたんですね。
近年の歴史ブームの影響で片倉小十郎ゆかりの白石に観光客が来るようになったという事で、歴史に注目が集まり、最近“実は真田家がこの辺にいたんですよ”というのが蔵王町では話題にされるようになってきました。それで今回は4回にわたり勉強会が開かれる事になったようです。
真田家の子孫は蔵王町の矢附地区と曲竹地区に領地をもらっていて、矢附地区に真田家の屋敷があったんだそうです。
私は蔵王に真田幸村の子孫が住んでいるなんて、去年初めて知りました。
私は小学生の頃に図書館にあるマンガ歴史人物シリーズを読んでいたんですが、一番最初に読んだのが真田幸村なんですよね。最初は絵に書いてある甲冑が格好良いな位の感じだったんですけどね。
そのスリコミのおかげか、とても好きな武将です。少ない兵で大軍を苦しめる所とか散り際の美しさに魅かれます。
しかも去年ちらっと聞いた話では、私が実は真田幸村の子孫かもしれないという事で、ものすごく興奮しました。なんでそんなすごい情報が今まで話題に上がらなかったんだ。
今回は第一回目という事で、そもそも真田家が戦国時代に何してたか?という講義でした。
とてもコンパクトにまとまっていて分かりやすかったです。やっぱり詳しい人がまとめるとすごく分かりやすくなりますね。
なぜか徳川家と戦闘する事が多く、しかもその度に痛手を与えているから徳川家からするとちょっとムカつく連中だったようですね。
今回初めて知ったのは、大阪夏の陣で片倉小十郎(2代目の方)に預けた子供の数は5人もいた事。女の子ひとりだと思っていたのが実は男子もひとりいたという事で驚いていたんですが、実は他に女の子3人預けているんですね。いくらなんでも預けすぎだろうと思うんだけど、それをすんなり預かってしまう片倉はスゲーな。
それと残念ながら私は幸村の子孫ではないらしい。真田家の分家の女の子が私のじいさんのじいさん位の人に後妻として嫁いでいるんですが、私の家系は先妻の方から生まれた家系なので、幸村とは血のつながりがないんですね。親戚ではあるんですけど。
惜しい!!!
まぁこの期待させておいてぎりぎりアウトな所が私らしいなぁ...
真田幸村の子孫なんてめっちゃアツイんだけど。
実際その子孫の人達は近所に住んでいるんですけど、自覚ないだろうな。もったいない。
ソフトボールチームを結成するなら幸村の六文銭をチームのマークに使いましょうよという事で同じ地区の人に話をしても、真田幸村自体知らないようだったみたいだし。
近所にこのロマンが通じる人が少ないのが残念です。
多分蔵王町の方で片倉と真田を絡めたイベントを立ち上げようという話が起こると思うので、そのイベントが行われるとこの辺の地区の人も興味持つようになるんだろうな。
「宝島社発行で 貴殿監修の「真田幸村の真実」と言う本の中で「幸村が家康を亡き者にしてくれるなら幸村の子供たちを引き取り育てよう、との密約があったのだ」と記されています。それは何かの間違いではないでしょうか。夏の陣当時の状況は「1605年には秀忠が将軍となっており、家康が亡くなっても幕府は続くので、伊達の天下は考えられない。そんな密約をする理由も無かったものと思う。また、伊達は、半年前の冬の陣の功により、伊予宇和島10万石を家康から貰っており、政宗の二男 忠宗に秀忠の娘・振姫を妻とする話が持ち上がっていた。家康とは伊達家はうまく行っていたので この点からも密約は有り得ない」。「普通の家族の言い伝え」の方法は親父、或いは祖父が 子や孫に言い伝える事によって正確に伝わります。しかし、幸村の場合は戦場にいる。長男の大助でさえも城の中である、ましてや敵の大将と密約など出来るわけがありません。又、その密約の内容は、密約なので、誰も分らないのは、当然ですが、その密約があったと伝わっていること自体がデタラメです。幸村、大助、大八は死んでおり、誰が貴殿の先祖としている守信に伝えたのでしょうか。守信と大八は別人なのです」と。以上のような質問をしたら T さんは、応えることが出来ず「とんだいいがかりとしか思えません。失礼にも程があります。以後、メール等はお断りします。真田」と。真田幸村の本当の子孫なら堂々と回答出来るものです。